足元を見つめ直す意味で、自分の原体験を振り返ってみようと思います。昔話ですが、今の自分にとっては備忘録にも繋がる内容なので、興味のある方はお付き合いください。
私が今のWeb業界に足を踏み入れたのは、ちょうど24歳の頃。
インテリアデザイナーを目指し、18歳で香川から大阪に出てきました。
しかし若気の至りから学業に専念せず、早々にインテリアデザイナーの道を挫折しました。
次にインテリアショップの販売員を目標を切り替えました。
そして、こちらも同じく自己主張の激しさから挫折。
結果、古着屋のショップ店員になりました。
開店から閉店まで1人で営業を行う小さな店舗という事もあり、ブログ開設やEC運用も1人で行いながら、独学でPCスキルを習得しました。
その後に“二転三転”を経て、24歳でWeb会社に就職しました。
今回の話はその会社で最終一人ぼっちになった時の話です。
入社のきっかけは友人の紹介
“二転三転”と書いた通り、いきなり普通の制作会社に転職できたわけではありません。
始めはゴリッゴリのアダルトサイトを運営する会社に入社しました。(入社したというよりも、入社してしまったという表現が適切)
入社の理由としては「どこでもいいから未経験で雇ってもらえて手取りも良いところ」なんて軽い気持ちです。
中途採用/デザイナー/実務経験なしで初任給 28万(ボーナス年2回有)、面接は5人の集団面接(30分刻みで半日ずっとやっている)。
今思うとこの判断基準が最大の失敗要因でした。
業界の事を理解しているとすぐわかる事なのですが、当時は何の疑問も抱かずに応募したのを覚えています。
実際この会社では3ヶ月ほどしか在籍しなかったのですが、某無料ブログで顔出ししている女性の写真をグラマーな裸体写真と合成させる作業をしたりと、反社会的な仕事をしながらも“オーサリングソフトの技術を磨く”には良い職場でした。
途中からメルマガ配信(ただの迷惑メール)も業務に加わり、1日の決まった時間に配信する方法だったので、官能小説を続編的に配信したりと、インターネットの力を肌で感じました。
ちょうど年齢の近い同期が居たのもあり、自分の仕事を早々に終わらせ、互いにポートフォリオを作ったり、楽しみながら働いていたのは今思うと少し懐かしかったりします。
とは言っても、本来やりたい事とは違っていたので、早々に転職の意思を固めました。
そんな矢先に古着屋時代の友人から「うちで働かない?」と勧誘を受けます。
友人の勤めていた会社は、自社開発のCMSソフトがあり、それを利用した「自分でも簡単に更新できるホームページ」を商材とする会社でした。
業績としても好調で、友人はその会社の制作部で統括マネージャーをしていました。
ただ状況としては“残業代未払い”によるいざこざで退社者が一斉に出て、元々10人近くいた制作チームが3名になる状態。
圧倒的な人手不足の中、ポジティブシンカーである自分に声が掛かった、そんな流れでした。
友人は残業代未払いに関与していないにしろ、今で言うブラック企業に変わりはありません。
とは言うものの、自分の場合は「アダルトな会社よりは良いだろ」という考えもあり、即答で転職を決意しました。
もちろん転職後は、終電ギリギリまでの業務は当たり前で、一人当たりの案件数も一気に50件over。
営業範囲も西日本全域で、北は長野県(日帰り)・南は福岡(もちろん日帰り)とディレクター兼デザイナーとして社畜ライフをエンジョイしていました。
残業代なんて当然出ませんし、基本給も低いため「こんなに働いても手取り15万かぁ…」と思うこともしばしば。
毎週のようにクレームが発生し、ストレスから吃音症になり自分の名前を発音できないなど、話し始めるとキリがないですが…貴重な体験でした。
人を育てる立場に
そんな忙殺される日々も落ち着き、会社の体制が変わりました。
制作部が子会社化し、友人がその子会社の代表になったのです。
親会社から仕事を請ける構造ではあったものの「自社での契約を増やし、独立を目指そう!」との方向性も明確にありました。
それと同時に私はチーフデザイナーに昇格。
初めて人を育てる立場になりました。
部下を持った時系列はあまり覚えていないのですが…
- ショーパン姿が印象的なスタイルの良いの女性
- いつも二日酔いのヒゲの濃い男性
- 京都大作戦好きなヒゲの濃い男性
- 何をしても怒らないヒゲの濃い男性
の4人(だったかな?)を部下として、初めてチームというものを持ちました。
人に何かを教える立場になったことがない私にとっては貴重な体験で、はじめてマネジメントやコーチングなど、自己啓発本を漁り初めたのも、この辺からだと思います。
ただベースがあまりロジカル思考派ではないのもあり、せっかくのインプットした知識も、自身の感性に頼って行動してしまっていました。
責任、自覚、弱音、言い訳、自分ごと化・・・そんな言葉や印象に敏感になり、概念論をいつも熱く語っていたのをよく覚えています。
責任者退職、繰り上がり昇格、しかし…
子会社化した会社の業績そのものは悪くなかったのですが、自社開発CMSの販売不振が続き、親会社からの仕事の流れが緩やかになってきました。
元々、このソフト自体も自社で販売していたのではなく、自社をメーカーとして代理店に販売をお願いしていました。販売代理店は自社で制作部隊を持たないため、メーカーで制作部隊のあるこちらに依頼をお願いする構造でした。しかし販売代理店が自社商材を作り、内製化を進める動きになり一気に風向きが変わったのです。
結果、会社は親会社に統合されることになりました。
その流れがあっての事かもしれませんが、時を同じくして子会社で代表を務めていた友人が退職(独立)する事になりました。
親会社とどういった話があったのかは知りませんが、長年制作部を支えてきた統括マネージャーの退職です。
入社のきっかけになった友人であり、上司でもある友人が会社から居なくなることは悲しい事でしたが、自分自身は社歴・実力として「次は俺だ!」と奮い立つものを感じていました。
しかし、それからと言うもの、次から次へと退職者が相次ぎます。
まだ自分がその立場になるとすら決まっていない時にです。
私は小さなチームでありながらも、みんなの思いに寄り添い、信頼されている“つもり”でした。
メンバーとの仲も良く、現場に最も近い位置で皆の事を常に気にかけている。
そう自負していました。
新体制になり「再起をかけて!」の気持ちの準備は整いつつありました。
が、現実は違いました。
「丸山さんがトップになるなら辞めます。」
自分の知らない所でそう言われ、その後スタッフは駆け足で退職し、制作部のスタッフは自分ひとりになりました。
「良い上司像」は、自分の願望でしかなかった
なぜ自分じゃダメだったのか、何が足りなかったのか。
そんな気持ちを持ちつつ、たった1人の部署になり、始めの頃は3人分の仕事を熟す“修行”のような日々が続きました。
やがてそれも慣れ始めた頃、改めて「良い上司」って何だろう?と自分を見つめ直すようになりました。
上司と部下の関係とは?
良いコミュニケーションとは?
強いリーダーシップの取り方、チームビルディング、マネジメント等など・・・そう考えるに連れ、ある結論に辿り着きました。
“相手の事を理解していない時点で、自分を信用してもらえるはずがない”
ということ。
「なぜ自分じゃダメだったのか」「何か足りなかったのか」と言っている時点で、そもそも対話量が圧倒的に足りなかったという事実に気付いたのです。
マネジメント論やリーダーシップ等の情報をインプットするだけで頭でっかちになり、対話と言ってもただの概念論。
話す、褒める、叱る、任せる、守る、魅せる、評価する、育てる。
これらを定義付ける事も大切ですが、それは自分の願望を押し付けているだけに過ぎませんでした。
上司・部下関係なく、人と人である以上、まず対話が基本。
会社に属す一番の理由も対話ではないでしょうか。
上司・部下ではなく、1人の人間として考える
今、現場でも同じような問題に直面する時があります。
これは端的な話かもしれませんが、部下はいつか必ず自分の部下では無くなります。
テクノロジーの進歩が早い今、会社の寿命よりも働く期間の方が長いと言っても過言ではないでしょう。
そう捉えた時に終身雇用のキャリアパスなんて存在しません。
私の今いるWeb業界もそうですが歴史も浅く、技術の進歩による業界の縮小なんて容易に起こり得ることです。
そんなエビデンスが存在しない時代を生きている以上、上司・部下の関係性ではなく、会社に属す1人のビジネスパーソンとして「自分の人生に責任を持とう」と、接するべきではないかと思うのです。
「はたらく」って、なんだろう。
「会社」って、なんだろう。
「上司と部下」って、なんだろう。
昔の体験を経て今、その定義が変わりつつあるように感じています。